@article{oai:nsu.repo.nii.ac.jp:00000292, author = {小林, 健彦}, issue = {53}, journal = {新潟産業大学経済学部紀要}, month = {Jun}, note = {論文(Article), 日本人〔本稿では、国、民族の別や、非渡来人であることを表わさず、単に或る一定の期間以上、日本に居住している(していた)人、と言う定義で「日本人」の呼称を使用する〕の心底には、「無常観」や「厭世観」と言う語で表現される、社会的にも共有化された心情がある。ただ、これにぴたっと該当する英語表現法は管見の限り見当たらず、悲観主義、悲観論を表わす「pessimism」や、消えて行く感覚を表わす「a sense of evanescence」等と翻訳されたりもする。つまり、英語言語文化圏に於いては、日本人が思い描き、共有している様な、抽象的で曖昧な形で存在をしている「無常観」、「厭世観」を想定した、社会で共有化されていた概念が希薄であった可能性もあろう。それは、地域特性〔特に自然災害(疾病、伝染病を含む)の種類や多少、気候風土、習俗、思想、治安、政治的状況の安定度等〕に依る差異であったものと考えられる。「無常観」や「厭世観」には、確かに悲観する、はかなむ(果無む・儚む)という面が存在していない訳では無いが、それは主たる感覚では無く、若し有ったとしても、一時的で副次的な感性であるものと推測をする。これらの語の核心的な感覚とは、世捨て人になりたいと思うことでも、自暴自棄になることでも、自殺をしたいと思うことでも無い。それは恐らくは、次の新しい段階に向けての速やかなステップの構築であり、その為には周囲の状況を慎重に観察、分析し、或る場合には静観して遣り過すこともあったであろう。要は生き抜く為に無駄な努力はしないこと、その為には犠牲を払うことも厭(いと)わないこと、である。それは、一見すると合理主義的で冷酷な様にも見えるが、決してそうでもない。その答えは、「生き抜くこと」、「与えられた寿命を全うすること」なのである。その為には、保身術も必須なスキルであり、知恵や知識、技術、学習行為、そして、協同行為、他者への思い遣りの心も要求されたことであろう。本稿では、鎌倉時代初期と言う時代の過渡期(少なく共、王権側にとってはそうであろう)に、鴨長明が執筆した随筆である「方丈記」を参照しながら、そうした日本人に依る「無常観」や「厭世観」の形成理由やその様相を求めようとするものである。「方丈記」が随筆であるのか、断片的な私日記であるのか、単なる備忘録であったのかに就いては判断が困難ではあるが、彼に依る、客観的事実を根拠とした形での、一定の所感や教訓が述べられていることは事実である。ここでは、彼の眼を通した形での世界観を垣間見ることとしたい。, application/pdf}, pages = {55--83}, title = {「方丈記」に見る対災異観 : 自然災害の発生と無常観の形成}, year = {2019} }